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体罰(αの考え) 

 昨日βが書いた体罰についてを打ち合わせなしに勝手に書きたいと思います。

 相方が言っていた事は確かにと思う。教師としての欠落、人間としての欠点、このようなことを原因に絶対に体罰の問題は起きてはいけないと思う。
 今から書くのは、もう一つの考え、「愛」の体罰についてです。
 現在も(おそらく)教師をしており自分の小学校のときに担任をもってもらった教師の話しをしたいと思う。
 その人は男性教師で背が高く性格は普段は子どもと共に遊びまわるぐらい明るいが、一度怒ればものすごく怖い人だ。頻繁に怒り、怒れば怒鳴るし物は壊していた。
 しかし、怒ることは頻繁にあっても手をあげることはほとんどなかった。その人が音楽の先生であったこともあり歌には厳しくよく怒鳴っていた。もし、このときに手をあげていたならばそれは前者となり問題があるだろう。その人が手をあげるとき、それは生徒があまりにも道徳に反したときだった。自分もやられたことがある。
 この点について考えたい。確かに体罰には変わりは無い、しかし、決して欠落などによるものではない、生徒をこれからの人生で踏み外さないようにするためのこれこそ「愛」のものではないかと自分は考える。この「愛」は必要な事ではないかと考える。体罰には変わりは無い、受けた生徒も文句をもらしていた。しかし、よく考えたときに「受けた本人の非」はどうだったのだろうか?先ほども述べた通り、その教師はよほどでなければ手を出そうとは思わなかったはずだ。受けた生徒を見れば、受けても仕方が無い行動をしていた人が多かった。自分は教師は生徒の将来のために勉強だけでなく道徳心も養わなければならないと考える。その中で正すための行為として手をあげることがあると考える。その行為は、悪意は無い、「愛」のものだと信じている。
 しかし、くどいようだが体罰には変わりは無い。金八先生のような覚悟が無ければやるべきでない事だ。体罰を解決策とおくのでは無く、話し合いや触れ合いの中で問題を解決するべきなのである。互いに腹の内を見せ合い理解し合い、ゆっくりであっても解決に方向に共にいく、それが理想だと考える。
 と言っても現実はそうはいかない。なぜなら生徒と教師の信念、考え方が見事に違うからである。生徒はまだ自立していない、親の下甘い考えを持つために自分のやりたい事をしたいと考える人が大多数だと考える。対して教師側は多少の我慢の下社会人になったときに認められるような人材を送り出したいと考えているはずだ。【自由】【束縛】、この考え方の違いはとても大きい。教師側はそんなつもりが無くとも個人の自由のもと立派と言われる人材が生まれるとは思えない。アメリカは自由の国とされるがそれは各人での責任感がしっかりとしているからであり、我々生徒にはまだ一人前の責任感が無いまま自由にしているのだ。
 ゆとり教育となり束縛は少なくなったが自分からしてみれば自分も含めてまともな道徳心が育っていないように思われる。この先社会に出たときどうなるか不安が残る。


 途中から体罰の事ではなくなってしまいましたが自分が言いたいのはこんな感じです。この点に関しては様々な意見を聞きたいので是非コメントお願いします。

 以上やる気の起きないαでした。
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[ 2006/02/10 23:30 ] 世相を考えるーα | TB(0) | CM(0)

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